リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

次回作の題が、、

 こんばんは。相変わらず涼しくて助かります、一方、蚊が出るくらいには暑く、もう毎晩アースノーマットをつけております。ほんとに人間に害はないのかなあ。 
 しかももう3,4年前の薬のせいか、どうも効いてない気が。大昔、ベープマットでバタパタ蚊が落ちたのが懐かしくドラッグに行ってベープマットを探してはみましたが、マットはあれど、器具本体が見当たらない。
 どういうんだろうね、HPによると取扱店が限られてるの。電池式はふつうにあるんだよ、ところが私は電池はすべて嫌い。
 まあ、もう少し我慢するかな。

 世間話2題。

「「ただ助けたい一心」 81歳、海に飛び込み転落車両から運転手救出」(朝日新聞)
 年寄りが刃物でシートベルト切って助けたって。
 えらい。81歳といえば本来くずばかりなのに。わたしゃできないな、まともに泳げないし。しかも刃物って、、

「タイのベテラン女性看護師、仏教の戒律破って僧侶の命救う」
 トラックが僧侶35人に突っ込んで10人死んだって。それを女が助けたという。
 タイじゃ女が坊主に触ったらいけないんだとよ。ほっとけよ、そんなやつら。死んでから反省すればいい。
 ま、こっちの場合はわたしでもなんとかしようとするかな。

 個人的世間話、ついでに一つ。
 今日は土曜日、池上彰の番組があって、わたしゃ無視して風呂に入ったけれど、どうも池上の発音が「ニッポン」「ニッポン」と聞こえる。お前、日本はニホンだぞと思う私。ニッポンという呼称は旧首相佐藤栄作が大日本帝国の玉砕呼称「ダイニッポンテイコクバンザアイ!!! アアアア!」といって機関銃でぶち殺された状況が好きだという話をもって決めようとしてNHKに命令した呼称(証拠はありません)。
 池上、なんでお前ほどのリベラルの頭首が、たとえNHK、OBでも、そんな名称を使うのか。
 (池上というのは私と同じ東京教育大で長坂聡に教わろうとしたらその年紛争で教育大は入試中止で慶応にいったとのこと。ちなみにわたしが2年の時受けた長坂聡の講義は良かった。そうか、これが大学の講義というものか、と感心した次第。ただし長坂の師匠格の1年の時受けた大島清(法政大の同名ではない)の講義はひどかった)。
 ま、いいんだけど、池上、内容的にはよく教育的で、わたしにゃできない。

 さて世間上の世間話的には、W杯決勝トーナメントへ。おめでとうございます、敗れたとはいえ。
 長友も出られてよかったじゃん、もう40だよ、メッシより偉いかな。
 ブラジルの熱狂と比べたら熱狂しないんだからしょうがないよね、って他人ごと?
  そういわれても大谷じゃないし。ましてや剣道選手権でもないし。
   本田が次期監督だってさあ、いかが? わたしゃそれもいいと思うのだが。
   監督に合うとは思ってないけど、彼氏自身は成長する気がするんだよなあ、、

 というわけで、本日もためになるわけじゃなくて、グチブログのたぐい。

 自分の次回作の題をね、こんな社会学はダメだ、っていう筋を主体に色々変えてきたんだけど(表には出してない)、しかしさ、後継者が受け継ぐべき社会学やら政治学やらの当事者がただのバカじゃあ、そもそも執筆意図が成就しないじゃないか。
 あ、いっちゃった。そう、このごろはお感じの通り、私の基本スタンスがけんか腰なんだよね。
 彼ら子供のような社会学者や政治学者はアメリカ語を読んで、算数でも解いてれば一人前だと信じ込んでいる。そう信じさせたのは必ずしも師匠のバカさ加減ではなく、それが令和時代でさえ珍重される教授会のせいかもしれないけどね。
 ともかく論外。
 そんな状況上の行為主体に対していくら正しいことを叙述したって、受ける側がバカじゃ何も伝わらない。
 (なお、これは一般民間人のことを言っているのではないのでお間違えなきよう。)
 そんなこといって、1年同じ題を掲げてたけどね。今回読んだ某「日本人は右傾化したのか」なる調査報告書だって、もしも戦前の文学者が読んだら正しい批判が殺到するに違いない(批判は、編集モノとはいえ全論文、7行前の通り)。昔は、「文学者」が自分の頭で考えてたんだよ。昨今の学者以前の卵がこの文を読んでたら、絶対君よりも彼らのほうが頭が良いから。討論すべき相手の本体は思考しない人間の頭だからね)。(って、それだけにそんなレベルの対応は私のやることじゃないのだ。前々回の問題点指摘とは次元が違う、低すぎる。みんな考えりゃ済むこと。社会科学の蓄積などいらぬ。といって私なんかもういくらも生きない。)
 もう一言いえば、戦前育ちの文学者がアメリカ文学の専門家であれば、それもただのバカに収まっていたかもしれないけどね。

 じゃあわたしは次回どうするか、そこで思考は止まるわけだ。正しくは、思考は止まらないけれども(探求)行動が止まるわけだ。
 バカに正しいことを言うのもばかばかしい。
 ここはいっそ、ライトノベルズを書いて、賢い子供たちにお話しした方がよっぽどいいのではないか?? この半年の悩みです。

 ま、グチはこのくらいにして、まだ結論は出てないんだけどね、つねに私の相手は人民だということを再認識しろと、自分に自分が言われたところ。

 ところでさ、話は変わりますが、前々回言った「江之浦測候所」という建築物パーク。ぜんぜん存在趣旨が意味不明なパーク、といったところ、やっとわかりました、パークの1区画1区画が、分離して、作者川島博司の思い入れなんだとさ。その区画を川島と一緒にめでるのがほんとうのようです。
 わたしゃ悪いけど自分の鑑賞眼には絶対の自信があるからね、それ以上はいいません、がそういうものだそうです。んだけどさ、自分のためとはいえ、川島氏、金もかかれば努力もすごい。ま、世の中そういう努力の話ならあちこちにたくさんあります。
    ご参考まで。

 

伊藤詞子氏の卓抜な社会科学的功績

 というわけで、その辺の論文業者と一緒にしてはあんまりなので、別項で注目させたいのが伊藤詞子氏の出色な論文。「チンパンジーの集団-メスから見た世界」『集団   -人類社会の進化-』河合 香吏/編所収、京都大学学術出版会、2009.12。
 氏は、既存の集団概念と集団構成説明を拒否し(というほど強くはないが)、チンパンジーの雌の諸行動を反証として、新たな理論構成の必要を訴える、って誰にも届きやしないのだが。
 ともかくその気づきは素晴らしい。理論構成に至れないのは氏には学的目的がないからだ、と指摘おきましょう。まだ60歳前と思われます、まだまだ若い。もう一度青雲の志を取り戻し学的構成を試みるならば、確実にまともな人類学的理論が樹立され、それが社会科学理論に重要な示唆を与えることでありましょう。
 基本は、目的に貢献する契機の抽出ですよ。契機から因果連関へ。

 図書館で別の論文も見られるようです。楽しみだな。

 

   今日は悪い日だったけど、十三夜だよ、久しぶりにいい月。大島は暴風なんだろうね。

 

p.s. でさ、3日後、伊藤氏の別論文「共存の様態と行為選択の二重の環」『制度   -人類社会の進化-』河合 香吏/編所収、京都大学学術出版会、20013。

 残念ながら淡々と、人類学で「制度なんか扱えるもんか」と叙述されていました、個人の解釈です。

 まあ原理はその通りでして、制度というのは筆者が述べたように(「資本主義と支配システム」) 【「制度」は、行為者にとって固定されるべき、外界認知の範疇により行為者の観念に存在する。人は、先達の肉体権力的知識付与を受けて、世界に行為規制のあることを知り、そして実際に自分の行為でそれを権力的に確認されてしまう。・・・これが「制度」である。】

 つまり、権力によってセットされた外界環境です。そんなものがサル社会に存在するはずもない、にもかかわらず、420ページ、4200円で展開している彼らはなんなんだね。

 私には残念ながら、それでもわけわかんない展開だけは拒否した伊藤氏がうれしい。 

 がんばってください。

 

 と、p.s.で書いたのは、昨日借りたけどもう図書館に返すからあと知らねえ、ってことです、おりゃ忙しいんだ。べつに悪口言ってないからね。