リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

オカルトの続き(脳と心)

 こんにちは。冬とはいえ道を選べば梅の香りさえ漂う今日この頃、昨夜は家にいたら突然の奇声が響き渡り。すわ、階下の住居に強盗か、と思いましたら引き続き幼児が喜んでキャッキャ言う声が。豆まきか。節分でした。いいですね、子ども家族。階下だし。
 
 さて、本日のニュース感想。
 悪人というものは、その人生で同様のことをやっておりますので、今さらながら何を言おうが言われようが平気の平左であります。
 トランプのことではありますが。
 トランプが悪いのは、バカなことだけです。これまでの実証社会学の通説のように、本来はトランプの資本家稼業が悪い。
 実証社会学は実は偉い。
 
 他方、一般人は、社会に指摘されれば襟を正すものであります。
 一昨日の朝日新聞には、「受験合格者の家庭に対し、一家全員分のプレゼントが届いた、なぜならば一家全員で応援してたからだ」 という話が投稿として誇らしげに載っておりました。
 「情けねえ、誰の受験だ。何が一家だ、くそでもくらえ。」 と思うのは爺いだけでしょう。
 同様に、家人の知らせるところでは、「昨日のニュースでは、中学受験のガキは、インフルエンザがいやなので受験前は学校をずっと休み学校もそれを許す」 んだそうであります。
 日本はどうしようもないクズばかりですが、それでも悪人ではないでしょう。
 早く社会的に、人間の人生はそんなものではない、という風潮が出てくることを祈りたいものですが、とりあえずそんな平和さは、軍国主義への、薄っぺらではありますが盾ともいえます。
  
 ま、どうでもいいや。さて、本日は続きもの2題。本題1、オカルト。
 
 前野隆司という人が『脳はなぜ「心」を作ったか』、という本を書いてます。今の手近にある図書館は、たいした本はないのですが、分かりやすいほ本はある。
 その趣旨を翻訳すれば、心は脳内の諸細胞の働きの結果としての統一物(ブツじゃないか、性だね)だ、というわけです。そんな言い方は前野氏はどこでもしてはいないけれど、先週も言ったように、人間は、言い方をまねするようでは何も理解していない、ということです。
 前野氏にいわせると、だからして「私」なるものは錯覚、諸細胞の反応の受動的な結果物だ、そうで。「私」とは脳内等での反応の仮の姿に過ぎず、諸細胞の活動停止とともに消える。
 ははん、なかなかクリアな物言いで感心いたしました。
 唯物的というか、即物的にはその通りに聞こえます。今まで初めて聞いたクリアさですね。
 
 ではありますが、この人は自閉症克服者のように思われます。
 多くの人間は、少なくとも私は、もっと他開的です。わざわざ「意図的に」身体や脳を活動させ、「意思」を実現させる。「『私』なんて受動的だよ。肉体や脳が勝手に動いてるのさ」 なんて前野氏の話を信じたら、普通、その場で座り込んで立ち上がらないでしょうね。意思なんて体内から湧き出るはずなんだから。でも、普通そのまま死んじまうわけですな、誰も抱き起こしてくれませんし。
 そうじゃないな。私なんかは毎日一生懸命主体的に生きてますよ。別に食事なんかしなくたっていいの。メシそんなに好きじゃないしね。でもそんなことは言ってられない。ほんと毎日一生懸命主体的に昼食を選びそして食べる。それが私です。
 普通、「私」とは、他の反応物と関連して「私」として行為できるのです。他の反応物の典型が人間。友だちや恋人や家族や敵のこと。もっとも庭の園芸植物、ということもありますが。「私」の死とは、普通、そこからの別離です。
 まあ、いまいちですね。
 
 で、上記はただの論の評価で、まとめ方が悪いだけともいえます。
 唯物的には確かに脳や肉体しか存在しないのだから。
 でもまとめ方を変えると、今までどおりの唯物論になってしまう。しかしていまいち。
 
 で、今までどおり、ということは、なるほどそれは50%正しそうだけれども、人間の疑問には答えていない、ということで。ここからがオカルト。
 
 人間の疑問とは、そんな統一性を醸出する脳内諸生物たちが、なんでころっと死んじゃうんだね、という問いです。人間にとって、あるいはその「統一物」たる心にとって、問題は死です。
 そりゃあ人間の本音は意識の死=心の死が問題なのかもしれないけれど、理屈上に問題なのは諸細胞の死です。なんでこの身体は死んでゆくのか。「死んだっていいが」それはなぜか。
 生物学上の答えは、「生命の連続のため」です。じゃあなんで生命の連続が必要なのか。
 人間にとって永遠の生命と、死んじまう心とは、不可分の問いなのです。
 ここ。ポイントは不可分、というところね。
 片方だけに答えても、答えにはなっていない。
 「そんな問いこそ、ないんだよ」というのは簡単だが、それは逃げだ。
 昔から、もっと粗野な形ではあるが、「私」という存在は肉体に付属するものとして捉えられてきた。「心の宿る身体」が「心が生まれる脳細胞」に変わったところで、これでは答えになっていないのだ。死んだら脳細胞から飛び立ってもよいのだ。
 ま、これが人間の疑問。
 まだオカルトじゃないよ、ここからね。
 
 第2に、まだ一部人間の疑問は続く。
 それではテレパシーや、庭の植物との会話ができる理由がつかない。
 どうでしょうか、この疑問はなかなかでしょう。
 これは昔習ったユーフォロジーの基本ね。 今はもっとモダンになってるかもしれませんが。
 「結果物を生産するスタンドアローンの肉体や脳」という存在ではなく、宇宙の波動の中で波動を共有する身体」という把握が、一番シンプルにテレパシーやその他の反応物との会話を説明できるのであります。
 こういうのを、武谷三段階論の「実体的段階」といいます。現象をつかんだら、これを説明する操作可能なモノを措定してみる。「操作可能な」という点がポイント。科学というものはそこから始まります。
 
 「現象、ってそもそもそんなもんあんのかよ」 って、そりゃ知りませんがな。
 ただ、何万人もの人があるっていうんだから、説明も用意しとかなきゃね。
 
 次、項を変えます。