こんにちは。寒くない? なんか寒いよ。東京地方、とつぜん急激に寒くなって。「寒い」というのも恥ずかしいけれど、タオルケットも毛布にしました。秋はどこへいったやら。
でもおかげでカメムシやアカテンクチバ(蛾です、クズの葉とかにつく)がサッシ戸に挟まれることがなくなって気遣いが不要なのはいいことで。
さて、ざっとネットニュースを見てみると
「「ちゃん付け」は違法なハラスメント 元同僚に賠償命令 東京地裁」(毎日新聞)
「年上の同僚男性からセクシュアルハラスメントを受けたとして佐川急便の元従業員の女性が、約550万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は23日、男性に22万円の賠償を命じた。」
ちゃんはだめだってさ。悪いけど感じるほうがなんか特別な人じゃないかね、昔はざらだったよ、わたしは呼びませんが。ちゃんがだめってことは名前呼びがだめってことだよね。ゆみちゃん、なみちゃん、かおりちゃん。なんか昭和生まれの常識を外れてるよ。
ついでに昭和2件。
「「あんな奴は死んでしまえ」田原総一朗氏の高市総裁発言に野口健氏も激怒」(ZAKⅡ)
「ジャーナリストの田原総一朗氏は、19日放送の討論番組「激論!クロスファイア」(BS朝日)で高市氏について問題発言を行った。」
別にふつうじゃん。どこが問題? 日本も暮らしにくくなったもんだ。
野口なんか日本育ちじゃないからわかんねえの。
ところでこの間、高市という人を見て、この人、悪い人なんじゃなくて、単に能力が足りないんじゃないかな、と思いました。能力の足りないのは本人のせいじゃないから悪口は言いにくいな。自分のせいじゃないことを劣等を意味する言葉を使って指摘してはいけないのだよ。ま、どうせ低レベルの政局問題はここじゃ扱わないけどね。
「【高市自民】酷い野次 高市首相の所信表明中に「統一教会!」「裏金!」TV中継でも罵声流れる 「ミヤネ屋」橋本氏が怒り「演説の中身が分かんないじゃないですか!」」(デイリースポーツ)
ここは中国か。それともソ連か。北朝鮮か。ヤジしたら死刑か。
国会からヤジをとって何が残る? まさか国会で議論してるなんて思ってないだろうね。
「橋本氏」なるものはナベツネの子分だからただのいいがかり。だいたい、テレビ見てれば高市の声しか聞こえねえよ。
調子に乗った国会中継も見たことのないウヨのガキが、独裁国家そのままにSNSで「いいたいことをいう」、SNSの「自由な」発言よりずっとマシだ。まあ驚くべき民主世界であることよ。
もう日本もダメだな、前からだけど。昭和はお望み通り消えてやるよ。消える前にヤジ飛ばすけど。
SNSがらみのヨタがネット記事に多いのは、記者が平成世代になったからかね、
とっといた他の話題メモ、無意味だから消します。
消した。
さて、ヤジな悪口。
第三文明社で出してた松本健一と菅孝行の対談集2冊、あきれ返ったもんだ。二人で感想を述べあってそれで3400円もふんだくろうとして。ほんといいよね、文学者って。二人ともかわいそうに遅れてきた文学者、最後の文学者なのだ、誰にも評価されずに消えてしまう、それでいいと思いますが。こっちだって暇じゃないんだ、ってライトノベル小説読んでるけど。まともな頭があれば、お互いのどこが主張のずれかわかるだろうから悪口を言われたくなければ励行するように、って松本氏はもう故人。
そういやあ、最近上野千鶴子が村山富市を戦犯だって言ったら死んだ人間の悪口はやめろとかってSNSが出たような。日本人発狂してる。「戦犯」よばわりのどこがいけない。村山も知らないガキたちのくせ。
さてしかし、上記批評は悪口ではなく、評価。
福田歓一(という評価の高い政治学者)などの本と比べたら刺激になるだけ救いというかうれしいというか。
要は文学者諸君には問題点はみえてもそれ(ら)を統括できる視点がないので裾野の周りをぐるぐる回るだけ。だけにしても登り口は言葉のあちらこちらに開いている。
他方おシャベリ好きの政治学者は、それ以前の言説を歴史叙述とからめてつなぎ合わせるだけだから、なんの問題意識も出てこない、出てこなければ登山口など見せもせず通り過ぎるだけ、というところか。
それでさ、この文学者の書物が参考文献になるのかならないのか、こういうのが困るんだよね。ほんとは他人の問題意識の場所として参考にしてるんだけど、それって読者には通じないでしょ? 「ここに「問題意識がある」がそれ以上は間違えるから読まないように」っていえる? そりゃ悪口だよ、わたしは誉めてんだけどね。
本題はこれから。批評の受け取り方。
カテゴリー新しく作りました。「生活者の小説作法」。おかげで題がつけやすい。
とっかかりは「妖狐の執事はかしずかない」(富士見L文庫)。7割方がファンタジーでできた、私の言うストーリー物です。
なかなか文書きの達者な著者、流れがスムーズでよろしい。唯一残念なのは著者と私と性格が違う。わたしは心が広いので温かく見守るけどね。
その個性がたぶん嫌な人がいるのでしょう、ネット感想を読むと悪口がかなりでている。まあ、それを読んで浸る世界が嫌な世界じゃ読んだ人はかわいそう、ともいえる。わたしも女の書いた小説は悪口しか覚えない。例:「わたしの幸せな結婚」(富士見L文庫)
しかし、そういう嗜好(しこう)は書いた人じゃなくて読んだ人のもんなんだよね。つまり、本が悪いのではない。この事実は批評を読んだ人が判断する際の良識というもの。
もう一種類の悪口は、ストーリー物に文学を要求するもの。これはそもそも違うんだからさ、これは表題で判断せずに手に取った方が悪い。
さてそこで。趣味と技術はわけて批評しないと誰のためにもならない、と思われるんだよね。
作者がどの主人公の立ち位置を取るかは趣味。もちろんその主人公の立ち位置で、その時代、地域での発言・表明は変わる。
それが気に入らなければそこで気に入らないといえば、同じ状況の人々はそんな本を読まずに済む。批評者の心の狭さに応じて悪口の形態をとっても、そういうのが本当の「礼儀」。他方、そこを通り過ぎてから全体の評価のごとき発言をされると、読む気が飛んでせっかくの本の存在が無になってしまう。
で、わたしが当初に本の種類を分けた理由がわかるでしょ。
ある作者が書くのが文学ならば、文学として読む人の批評だけ聞いておくのがよろしい。
ストーリー物を書く人は、売れ行きだけ気にしていればよろしい。
家庭ドラマを描く人は、これがなかなか微妙、面白くないといけないし、しかし、感動してもらわないと困る。一方、書くことで人生を(部分的に)明らかにしたのだから、それで満足すべきでもある。思うに、この種の作品は、これを読んだ人との交流にもう一つの意味がある、と考えるべきで、見当違いの批評も含めて、おおらかに受容すべきなのじゃないかな。
なんて、社交交流を奨めるのはさ、とっかかりの「妖狐の執事はかしずかない」(1冊目)のせい。いい本だよ、そのストーリー本のテーマなのだよ。
言ったように、ストーリー本でもテーマを表に出せるんだよ。文学本は当然だけどね、そのために書くんだから。でもストーリー本も負けてやしないよ。テーマは出せる。
文学本は、そうではなくて、叙述から「尽くせぬ人生」を受け取ってほしいわけだ。
ここでストーリー本は、その本で人生を尽くし切ってほしいのだよ、このテーマこそが人生。
って、実に隈と合う。
、、、あ、ついつい本題と違うね。でもさ、当該小説、著者の名前言ってなかったね、古河樹氏、ほんとに私と合わない。はじめからさ、この人、女じゃんか、って思ってるんだ。そうでなければみんな引いちゃうよ。そういう人っているんだよね、そんなの男だろうが女だろうが悪いもへったくれもない。
皆様におかれましては、第1に、立派な主張をされる著作者は、自分と他人とは違うんだと思ってもらいたいものだ、と。
第2に、批評はそれぞれの主張であって皆様は皆様固有の主張をなさっていただいてよいのだ、と。
そして第3に、皆様が第1でお感じのように、批評はどっちが悪いという問題ではないのだ、と。
そして結論として、とりわけドラマ系の小説の主人公は、だから著者が描くその行動についての主人公の表現作成は、読者の皆様の明日を形作る糧(かて)であるとご承知ください。
人生、若くても先達はおります、大リーグの大谷選手は、敵地野球場のブーイング(という拒否反応行事)に、破願して(もう笑っちゃってがんばるぞ、と示して)バッターボックスに立っています。
みなさまもバカな批評には「破願して」臨んでくださいませ。