リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「人間の尊厳」と「めいめいの一身上の問題」

 こんにちは。もう暮れも目前。
 今年は平常勤務だと正月が土日でつぶれのようだけど、今日明日でそこそこ仕事が終わったような気分になれる職場もあるでしょうね。
 今日はコロナ前駆け込みのお客さん。2年ぶりのお客様で楽しく過ごさせていただきました。おつかれさまでした。人間がいちばん。
 
 ネットには、「クリスマスは恋人と過ごす」という価値観に辟易とする若者たち」(マネーポイントwweb)などという記事も。
 記者は正気かね。したかったら恋人とゆっくり過ごしたらよいがな、クリスマスなのに。そりゃ恋人が居なきゃしょうがないだけで、ハタでなにをウジウジいっているんだ。アホかいね。
 もちろんわたしに、クリスマスを女性と過ごした独身時代はありません。
 
 さて、本日の些細な情報。
 最近はマイタケも安くなって日常に使えるようになったので、油揚げと炊き込みご飯にしました、ら、この工場マイタケ、お醤油に負ける。
 若い人はご存じないでしょうが、本来マイタケというのは香りが強くてゴボウにも負けない。炒め物とかに少しでも使うと全部がマイタケになる。そのつもりでご飯にふつうにお醤油と酒で味付けしたら、なんのキノコか分からなくなってしまった。 
 昔の本シメジも今のブナシメジの味じゃないってね。マイタケも味が食べやすくなったとは思ったけど、ここまでとは気づかなかった。
 教訓、マイタケご飯は塩味・酒の薄味でどうぞ。ダシを入れたい方は、カツオの粉末より昆布のほうがよさげです。
 
 今日の本題は、ちょっと特殊、岩佐茂「人間の生と唯物史観」。
 まあ論文集で、その『生の倫理』という章。
 共同生活には倫理が必要だ、というわけで、岩佐氏が言うには、それには「戸坂潤の道徳論が注目されてよい」
「戸坂の言うような生活意識としての倫理を、生活の論理に基づいて形成していくことは重要であるといえよう。そのような生活倫理が、人間とその生の尊厳に立脚したものであることはいうまでもない」
 というわけで、岩佐氏、「人間とその生の尊厳」を倫理とするよう主張される。
 
 違うんだよなあ。戸坂が言ってるのは、道徳とは「人間めいめいの一身上の問題として持つ問題のことなのである」「批評における文学・道徳・および科学」。(この場合の道徳は社会道徳じゃなくて、個人の持つ倫理を指している。)
 戸坂のは「めいめいの」すなわち「個人の主体性を賭けた」事項のことなのだよ。
 かたや、岩佐が言うのは、一般論。倫理学の試験で解答用紙を埋めるためだけの言葉の羅列。皆さん、岩佐氏が具体的に何を言ってるか読み取れないでしょ? わたしには無理。そんな言葉だけのきれいごとは倫理ではない。
 たしかに戸坂もマルキストだから、結局「生活」に焦点を移すから、そう捉えたくもなるのは分かるけどね。しかし、本旨はそうではない。
 実際、人間にとっての根源的な倫理はその主体性にあり、その主体性の倫理を表現するなら一般的な、空に浮かんだ「生の尊厳」ではなく、他にありえずしかし自分は知る「自己の尊厳」なのです。誇りを捨てぬ自分のかけがえのなさ。児童期に形作られた行為規範の遂行が他者によって認められた時、人はそれを倫理となせる。
 そしてそこに、このブログ前回の「主体の原理的転轍力」があるのであります。
 
 解説です。
 そもそも自己の倫理、もっと分かりやすく言うと自己に根付いた価値判断というものの本体は、もちろん自己の覚える賞賛と優越です。
 ただもんだいは。優越や賞賛そのものにあるのではない、ということです。生きている間に満足したりストレス解消したりすることのおおもとも、賞賛や優越です。では、ただの満足も倫理もおんなじものか? 
 いいや資本主義社会でのそんな賞賛と優越それ自体は、単に裏切りや人殺しを作ることしかできない。
 それで人間は他者に自分を「誇れる」だろうか? いや誇れない。なぜなら他者はバカではないからです。裏切り者や人殺しは、その権力がなくなった瞬間、泥沼の底に沈む。人間の誇りは他者が投げかける目のうちにあるともいえますが、その目を受け止めるその原基は、行為主体の児童期の経験という自己の心の底にあるものなのです。これを自分ではぐくむことでもたらされるものこそ、自己の尊厳なのです。尊厳て「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。」ね。

 ここで、「はぐくむ」とはどういうことか。
 価値は、主体が自己である限りにおいて、自己の中で累積され組み上がっていくのです。
 自分のある行為がA君を助ければ、その行為は認識において同時に、Bさんを助けるのです。またある行為は、死んだC先生を超えると同時に、外国の Herr Dをも越えるのです。

 「なにそれ? どうやってそんなことが起きるの?」
 そもそも戸坂が問題にしているのは「文学」なのです。こんなことは科学じゃないですからね。
 もっとも少し戸坂とはニュアンスが異なるでしょうが、この誇りの自分への組み入れを活性化するものが文学なのです。
 ニュアンスが異なるのは戸坂が生きたのが戦前の農村日本だから。彼は、本当のことを知っていても、その行為主体の存在を日本の世間に見積もることはできなかった。
 という、戸坂のようなエリートしか勝ち得なかった「一身上の問題」とは異なり、多数の庶民が自己の尊厳を作り上げうる先進国現代においては、小説、あるいは先輩、師たるものの感銘、その他、児童期の抑圧的親とは異なる人間存在からの情報により、人は「自己の尊厳」を高めて行けるのであり、行くはずであり、それを奨励すべきなのです。 
 今あげた小説の中の人々その他は、要するに、権力を持つけれども直接に行為主体の我と我が身にはその権力がかかわらない人々です。賞賛と優越は具体的個人と、権力ある(「権威のある」のほうがわかる?)他者たちが担う。
 このような、行為主体の意志を強力化させる認識の累積が個人において生ずるのです。
 そして、これを助けるものが文学です。ロシア革命を促進したもの、中国反乱を促進したものが小説だ、文学だ、という言説の根拠は、ここにあります。
 なのに、愚かな道徳学者や文部官僚は、「そのもとは倫理学説にある」と思うわけで、呆れたもんです。そうではない。そのもとは他者たる人間にあるのです。しかして、立派な先輩友人や師に恵まれぬ人間には、そのもとは人間を描く優れた小説にあるのです。

 とね。
 こんなことを過去どんな倫理学者がしゃべったであろうか。いいや誰もいない。戸坂氏の論は曲がっちゃったし。と、最近なかった自画自賛
 最近は社会学者なんかと付きあってたからね、やっぱ私の生とは理論の次元が違う。
 褒めてるのやらけなしてるのやら。そりゃけなしてますが、それって、倫理学者を相対的に褒めているのか、そっちが不明、、
 
 (といってもさ、ほんとはあと一つ、過去誰も知らないことがあったんだよね。でさ、人が食器の洗い物中にしっかり考えたことが、キッチンスペースをでたとたん、いっぺんに壊されてしまった、テレビでやってた「ためしてがってん」、ポテサラで(水曜日)。
 ポテサラ好きでさ、ポーンと飛んじゃったよ。ばかやろう。しかもそこから話は長々と続き、思い出そうにも無理、絶望。)

 (注:ネットを見ると出てくる湯川和夫氏の論文注で戸坂の当該論文が「全集3」とありますが、違います、「全集4」です。いいですね、昔はおおらかで。今じゃ許してくれないこんな間違い、そりゃ探してなきゃ不愉快ではありますが、まあ本質的にどうでもいい。といってもアカデミストには引用のほうが本質なので(ここ重要)、若い方はお気を付けください。)