リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

女性抑圧文化の伝承


 こんばんは。Gooから移ったショックも少し癒えて来た今日この頃、東京地方、桜はまだ十分咲いてましたが夕方からの風がひどい、低気圧が通っていくとか。こりゃ全部散るな。
 桜は一通り眺めたのですが、ヒノキ花粉がひどい、鼻からさらさらと水が落ちていきます、目もかゆいし。スギ花粉はあまり感じないまま終わりましたが、スギとヒノキはちがうのかしらん。

 今日は夜なのでテレビなんか見たりして。日本テレビ、「みんなの動物園」とかで、目の見えない子猫の話を40分も見て、この先どうなるんだろうか、、、さあその番組はどうなったでしょう? 番組スタッフの「大笑いの中で」次の番組に移っちゃいましたよ。
 ばかやろう。よくそんなことできるな。
 やつらは最後の責任の取りようも知らないんだよ。それがどれだけ私の嫌いなことだか知ってるのは Gooブログの仲間だけでしょうが。
 「やつら」って? 40歳以下のガキたちのことだよ。
 悪口に文句があるならここには来るな。責任のセの字も知らないやつらは大っ嫌いだ。
 (もちろん、わたしに反論がいえる立派な諸君は大好きです)
 で、風呂から上がってたまたまテレビ朝日をつけて、見てはないけど今耳に入ったことには、アメリカ女がトランプについて反対して、ってそこまではいいが「もちろんこれは私の個人的な意見です」だと。
 反吐が出るぜ。そのまんま死んでしまえ。
 聞いてるのはてめえの意見に決まってるだろうが、なんだ「個人的な」って(日本語訳です)。逃げんじゃねえよ。
  、、、ああ情けない、、日本のガキと一緒。「世界」の意見ってシンクロするんだよね。そんな理由をわたしがここで奏でてみせるのは簡単、しかし意味もない。おりゃそんな暇じゃない、3,4つ並べないといけないから。

 というわけで、夜は文にウイスキーの影響が出るので、ほんとは書かない方がいい。

 さて、古い人はご存じなように、わたしは普段は温厚な紳士。
 ここのところ書いてきたように、昨今はライトノベルズをひいきにしているのですが、ネット情報でも自分の嗜好にあう「マンガ」を一生懸命検索してて思うのに、少女小説・漫画って、もしかして現在で多大な蓄積があるんじゃないかね。
 本もマンガも、どうも平気な顔して似たような筋が目の前に現れてくる、前例あるのに恥ずかしくないんだよね。それがどんどん累積することに誰も気を留めてないとしか思えない。ううん、これはそれを日常的に見る人々にとって、そういう世界がすでに構築されているのではないか、と。

 ここで、1行空けたい。いろんな思いが飛び交うだろうからね。わたしゃ歴史過程を知らないからそんなことにつきあいたくない。

 でさ、ポイント。それも良し悪しで、悪いけどそんな世界って決して女性たる行為主体が重んじられる世界じゃないぜ、知ってる人は知ってるはずのように。そこでは抑圧女性が支配男の生活のその中で生きる物語が基本。それじゃあ行為の主人公になるべきこれを見た女性って、そんなロールプレイをしちゃうじゃん。いやもちろん、そうでないマンガもないとはいわないけどね、そうでないマンガのインパクトは、というと、よほどよくできてなきゃ売れないんじゃん? かたや被抑圧女性には現実をなぞっているから普通に売れるのでは? 
 もしろん、「そんなこといったって」っていうのはあるけどね、男はどうでも、40歳以下の女性には、「やつら」の範疇(はんちゅう)から抜けてほしいぜよ。

 ま、この前提は、現行の諸著作家が準拠するべき少女漫画世界が30年前からあったかどうか、という話だけど。
 わたしの想像の範囲はせいぜいコバルト文庫程度だけど、角川のライトノベルズなんか、基本、少女小説じゃん。うううむ、それが女性連中にどれだけ圧倒的な情報量を持っていたのか、わたくしも男、男社会じゃわかりゃあしません。文学史専攻の男博士たちもだいじょぶかね、きちんと評価しろよ。