リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

オカルト(その8;生命の本質)

 こんにちは。暑いっすねえ。外でて歩いてるときは必死なのでいいですが、建物に入って一息つくとむかつきます。本日はyahooの防災情報によると秋田が豪雨。横手市と大仙市が大雨洪水警報で、なぜ間にある美郷町が無事なんだろうと思ってクリックした、とたん、美郷にも大雨洪水警報が浮かび上がりました。バグか。
 しかし、お盆が始まって、午前中は田舎の駅前も、アウトドアの格好をした小さい子連ればかり。うらやましいこと。私は暑いので実際は遠慮したいですが。自分の幸せをわきまえず「あつい、、」とかぐずってるガキもいて、お母さんが怒ってました。
 
 さて、本当の勉強は暑いので想定どおりやる気が出ず。「やる気」の訳は、わざわざ確認しましたが、「Motivation」なんだよね。
「当たり前だろ」というのは学部学生までにしてね。モチベーションがあっても、暑きゃあやる気は出ないんだよね。主意しか神様に認めてもらえない英米心理学なんてエセさ。それを信奉する日本心理学者も頭の程度が知れる。脳生理学者に専攻領域を全部取られておしまいさ。

 さて、ニュースもお盆で、未取り扱い記事はないでしょう。でも「表現の不自由展」てやつは、書いてないね。これは自分の意見の代わりに引用で、長いコピー。大村秀章愛知県知事。
 ここにいらっしゃる方々には当然で意味のないコピーですが、最近政治意見で一番心を動かされました、もちろん左翼サイトを含めて。偉いぞ、選んだ愛知県民。ただし、名古屋市民を除く。
 「最近の論調で、いわゆる“税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだ”ということをですね、ネットでいろんな意見が飛び交っているのはこれは匿名の世界であれかもしれませんが、いろんな報道等でコメンテーターの方がそういうことを言っておられる方がいるようですが、逆ではないかと思いますね。これは行政、国、県、市、公権力をもったところだからこそ表現の自由は保障されなければならない、と思います。というか、そうじゃないんですか? 税金でやるからこそ、公権力であるからこそ、表現の自由は保障されなければいけない。わかりやすく言うと“この内容は良くて、この内容はいけない”ということを公権力がやるということは、許されていない、ということではないでしょうか」
「いちばん酷いのはね、“国の補助金もらうんだから国の方針に従うのは当たり前だろう”というようなことを平気で書かれているところがありますけど、みなさん、どう思われます、それ? ほんとうにそう思います? 私、まったく真逆ではないかと思いますよ? 税金でやるからこそ、むしろ憲法21条はきっちりと守らなくてはいけないのではないでしょうか。この数日間、“ちょっと待てよ”とつらつら考えて、非常に違和感覚えております」
https://lite-ra.com/2019/08/post-4887.html
 ただの自民党の政治家のくせにしっかりしてるよ。で、さらに大村氏に厨房がケチつけてるようじゃないか。こうなると厨房というより精神異常だね、人格が思い浮かぶよ。そこらにいるしね。なんちゅうと「精神疾患をバカにするな」でしょうか。
 ま、それはそれとして、この情報提供にケチをつける気はさらさらありませんが、なんだろね、このサイト。lite-ra? 他の記事をみたら、なんかため息、はあ、、とついたところ。もっとまっとうに話題を扱えないのかねえ、、今はなき子供たちの新左翼サイトみたいだ。 と、思ってネットにかけたら、「噂の眞相」かあ。サイトオーナー、苫米地だって、なっとく。といっても、苫米地、決してばかじゃないぜ。
 
 では、本題。旧盆なので、新盆に引き続いてオカルト。ま、常にそうであるように、半分はほんと。
 さて、世間では生命とは何だ、といっているか。ネットでは「よくわからない」から始まって「結局よくわからないで終わる」。書物は、と見れば、いったい何を考えているのだろうかという、「生物学者」の定義ばかりが目に入る。とりあげるのさえくだらない。理系の連中だから、「本質」という言葉を考えたこともないのだろう。(例:読み物としては、高井研「生命はなぜ生まれたのか」なんて本もあります。)
 というわけで、暑いから答えをシンプルにいってしまいましょう。
 生命の本質とは、「自己」です。
 
 ・進化? 進化しようがしまいが、それは生命観念を揺るがさない。世の中でたまたま進化しているのは、「生物」です。
 ・自己複製? それも生命と生物の混同です。なぜわざわざ複製をしなければならないのか。
 ・恒常性? それも生命と生物の混同です。なぜ変化してはいけないのか。
 ・エネルギー代謝? エネルギーの動きは世界中どこにでもある。もちろんそんなものは生命ではない。それは必要ではあるが生命ではない。
 
 そうではないが、唯一つ、生命には固有の、個別的な、境界があるのです。
 そういうと、それは人間の認識の固有さによるだけで、石にもビルにも境界があるではないか、という否定論がありました。いいえ、石に境界はございません。ただのSiO32-やCO32-の集合体です(wikiより)。どこで切れるものではなくどこで切れないものでもありません。あるいはビルというのはCaやSやAlやFeの複合体です。これらの内実も、どこで切れるものではなくどこで切れないものでもありません。「外部」にいる人間の呼び方が岩から石へ、あるいは砂利へ、あるいは瓦礫へと変わるだけです。そこには「固有の珪素」は存在しません。ところが生命にはある。全ての生命は固有です。
 しかして、固有の境界の複合体たる人間は生命ではない、という議論は正しいでしょう。ただし、人間は生命の複合体である生物です。生命と生物は違います。
 また、境界を持ったエネルギー、つまり、そこらの岩やマグマではなく、「地球」は、生命の可能性もあるでしょう。もっとも地球と月との境界はどこかと言われると、地球の自己管理が今のところ我々には不分明なので不明ですが。なので、可能性にすぎません。
 というわけでまとめがオカルトです。

 では、なぜ生命が宇宙に存在するか?
 生命は、外見上、かならず境界を持つ。この境界を持つエネルギー代謝は、「生命」が「生命界」から出て、エネルギー世界へ貫入した証左である。生命は固有的自己であり、彼は必ず、エネルギー世界を引き連れている。
 
 どんどん真理に近づいていきますな。