リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

もう一つの「歴史の必然」

(前回の続き)というわけで。マルクスの生産形態論。

「大ざっぱにいって、経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代的ブルジョア的生産様式をあげることができる。」(マルクス:経済学批判)(シカゴ・ブルースというHPにありました。ありがとうございます)
というやつですね。

それはそれである程度は結構ですが、そう主張する皆様は、マルクス当人を含めて、じゃあ何が進歩の動因かわからないでしょう? わかったら誰も揉めやしませんしね。(マルクス主義者の内部で(さえ)、たくさんの論争が起きて内輪揉めした(今もごくごく小規模なくせに内部でしている)、ということです)

本来、マルクスさんは、「これらの形態の根本は所有制度の違いだ」、とおっしゃるんですね。
所有制度の違いなら、なんか所有に絡んだ要素が進歩の動因になったっていいじゃないか、というもんですが、そんなものは動因になっていません。歴史的にも動因になっていないし、ただの主張としても、そう主張する人はいない。
あるのは「農民が生産手段を所有しなくなったので、賃金労働者ができた」という資本主義最初の一瞬の修飾語だけ。
 ちゃんといってよ。その動因は、あなたの言葉なら所有制度の違いではなく「生産力の増大」でしょうが。
 何を言いたいのかよくわかんないよね。何が所有さ。それが生産力とどういう関係があるの?
 人間にとっての論理とは、あるものが、それに関連すると規定されている他のあるものについて表現されたときに、論理として掌握されます。
「この花は赤くてきれいだね」「そうなんだ。緑の草の中で、赤は映えるからね」
これは理屈ですね。その花は、純粋に綺麗なだけかもしれませんが、それはそれで論理として納得できます。ところで、
「この花は赤くてきれいだね」「そうなんだ。多年草だからきれいだよね」
って論理か? ちゃう。

余談ですが、私もおじさんになってしまって、マルクスがなんかいうと、やめなよ坊や、恥ずかしいから、って気がするんですよね。
時々言うように、坊やチャンは流行が好きでねえ、天才とかじゃなくって、流行をうまく取り入れたんですよねえ。いや、素晴らしい取りまとめ人だと思いますけどねえ。
ギムナジウムで習った歴史観、大学で習った弁証法、図書館で勉強した経済学。この場合は、社会主義者仲間で流行の「所有」。
  誰だって多かれ少なかれそういうものかもしれませんが。
  少なくとも私はそうですね。中学校の社会主義、高校の実存主義、大学ではそれの否定形を自分のものにしたかも。
  食えないのがエンゲルスで。彼氏は天才だから全てをバカにしてますよね。いいかげんといえばいいかげん。いってることの9割しか正しくない。
  まあ、エンゲルスの言葉を文字通りとっては彼のいいところを失ってしまいますので、ご注意を。

閑話休題
実のところは、マルクスがこれが本質だ、とする生産手段の所有・非所有者の別名としての「自由」など、歴史とは何も関係がない。現代の歴史の主役という資本主義社会の「自由な労働者」など、気の利いた駄洒落に過ぎません。
まずは、支配出現後の社会では自由な農民などどこにもいやしなかったのです。
いやちょっとだけいたけどね。
ついで、一方、生産手段を持っていた農民もどこにもいない。彼らは、鋤や鎌を占有状態にしていただけです。

(なお、およそ権力が保証した「所有」という概念は、占有状態にない農地や農民への「所有権」が現象しない世の中では意味がない言葉です。鋤や鎌についていえば、「誰のもの」という言葉の所有格は、占有状態について社会関係の中で自然に生じますが、「自分の農地」なのに剣を持った野蛮な野郎達が「ここは俺の土地だ」と主張する状態は、社会関係一般の中では自然には生じないのです。個人的占有は、当初の消費物資の入手とそれにまつわる行為者の処分可能な将来の存在によって、人間の本来的態勢です。だからといって社会内の制度としての個人的占有が本来だ、といっているわけではありません。環境によって決定される社会関係には、「本来」などあるはずがないからです。「所有」概念神格化がマルクスが抱いた最悪の固定観念なのでしつこくいいました)。

歴史変遷にかかる契機として重要なのは、所有ではなく、まずは消費なのです。
原始的共同体においては、共同消費の「規範」が共同性の要になります。
これが規範であるための前提が個人的占有状態なんですね。それでいかにも所有が初めからあったように見えるが、実態は、共同の所有もなければ私的な所有もなかったというのが、人間の始原として親と子しか存在しなかった世界の理屈です。

原始のような小共同体においては、武力はあまり意味がない。寝ている人間の頭を石で割ればそれで終わる武力に過ぎないからです。下品ですけどそういうことです。小共同体における武力は、武力の共同的行使にある。隣りの部族を襲って消費物資を取ってこれるかどうか、あるいは捕虜を捕ってきて生贄にするか。
全ては、余剰消費物によって決まる。
これも世間では余剰生産物というけれども、それは本質的ではありません。
消費しないものをどれだけ生産してもそれは、邪魔ではないただのゴミです。
ある地域では、消費が余剰にならないときは(食料がどんぐりの時代、どんぐりをいくら拾ってもどんぐりが生るのは一時期で、数年も持ちません)、余った時間は生産的に、石組みを生産した。要はドルメンですね。この時代は、別に階級社会とは限らない。支配社会の可能性はありますが。

まだ、閑話してるかなあ。

人間の本来は消費です。これを社会的に規定するのは、労働行為の配分です。
これは、第三者的にいっただけのことで、本来は、労働行為の無政府状態による淘汰ですが。つまり、死亡という淘汰によって、労働行為が、その社会の消費物の規模に合わせて、整理・決定される。

生産力の発展というのは、「より少量の労働がより多量の使用価値を生産する力を獲得するような労働過程における変化」(マルクス資本論)などではありません。
「どれだけ継時的に余剰の消費物資を作れていくか」ということです。同じ1年の労働でいい、「同じ1年の労働の中で、どれだけ余りを作れるか」ということです。何が「より少量の労働」だか。いや、別にマルクスが悪いんじゃなくて、ただの勉強好きの坊やだ、ということです。交換価値はそうですからね。しかし、それと歴史体制の変遷とは関係がない。
さらにまた、生産様式は、『消費可能性規制』を媒介としてしか現実化しない。いくら作っても、使えなきゃしょうがない、ということです。資本主義の致命的なネックですね。
作ったものを使えるかどうか、これは、個人にとっては、消費物資がどのような将来において入手できるか、という課題になります。この仕組みが行為を決定する。
もちろん消費物資は空気からは涌きません。それは生産関係の問題です。しかし、ここでも問題は、生産形態、すなわち所有の形態ではありません。
 どうもマイナーな派閥(セクト)の人はマルクスの流行らなかったところ(「先行する諸形態」等のこと)を持ち出そうとしますが、残念ですが、流行らないのは流行らないなりの理由があるものです。


さて、大きな閑話をやめて、前回の話題に戻ります。
歴史に必然はあるか。
歴史とは社会体制の歴史だ、ということに限れば、歴史にはもう一つ必然があります。
人間は、行為としての自由を求める本質の中で平等を志向しつつ、自己の自由を広げる生産の方法を事実認知として将来に伝えることで、人間個人の自由を、体制の中での1割から2割へ、2割から3割へと、次第に広げていきます。
これが社会体制の進展の歴史の必然です。
第1に自由。そして、これを他に広げる平等。さらに、生産の拡大のための、生産力でも生産関係でもない、「生産方法」。

なんか違いますかね?