リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

方法としての弁証法・(その7:端緒から上向へ・追加有)

 こんばんは、今日の夜ですね。というわけで予定通り午前中の続きです。主題は上向。
 上向は、始元で規定した要因の説明の累積です。で終わり。
 といいたいところですが、累積とはいえ、そうそう上に向かってはくれません。それぞれ違う要因に後押しされた上位要因というものがあるのです。そこで、この上位要因を一くくりにします。一くくりといったところで頭の中では、元(げん)とあわせて計2つ、とは限りませんが、人間の頭はそう良くはありません。前回からいうように、複雑な要因について人間は「あれ? これとこれとはちがうぞ」という認識をします。このため、解明先に対しては、元(げん)の他に一つのくくりが入るべきです。「べきです」というのはもっと入るのが想定されますが、「そこはなんとか2つに括れ。それは叙述者への制限に限らず、追随者のためでもある」ということなのです。たとえば、権力ー被支配の2項対立では武力しか出てこないので、次に権力者の経済的基盤の章がいるわけです。世間で大学教授というと偉そうな顔をしてふんぞり返っているから、学生生徒の方たちはびびるかもしれませんが、だいじょぶ、教授(複数)など2つ以上の関連は分からないバカです。もちろん私も然り。バカでなければ弁証法など必要はない、という根本基盤を忘れてはなりません。
 ここで、世の中の太鼓持ち連中の中には、「ヘーゲルは何の規定性の連結もないのに「反」たる項目を挙げたがマルクスは偉いから規定性を延長させて「反」を生み出しているから偉い」などというのがいますが、お座敷芸です。お座敷芸で理論アカデミズムは渡れるし、昔はそうやって渡らなければいけなかったのです。しかし、そんなものは小さん(5代目)がいいか文楽(8代目)がいいかという問いかけと一緒です、ちなみに私は文楽よりは小さんのほうがまし。ともかく問題は規定性の規定の、論理上の、連結ではありません。
 とはいえ、先に見栄を張っている手前、追加して例によって本世界始めての本当のことを言いましょう。
 ヘーゲル論理学の場合は、本人の意識の如何に関わらず、下位の項目は上位のものを解明するモメントとして存在するわけです。当たり前です。現実は種々の事情の総体ですから、ある事情を成立させる契機が何か、ということが解明の主眼なのです。ヘーゲルは観念論者ですが、しかし、現実を相手に自分の体系を作ったのです。
 ところが資本論はそうではない。このブログで何回も言っているように、資本論がなそうとしているのは概念の把握です。壮大な唯物論的観念の理論なのです。現実などどうでもよい、頭の中で一つの概念が検討され余すところなく解明されればそれが成功なのです。それならいくらでも全ての要素を規定的に連関させられる。ばかばかしい。ただの手品です。そんなものが社会科学だと思っているから、マルクス主義はただの教義体系となる。主義者の誰がどう勝手なことを言おうと現実を解明する必要などないから、彼らが書き散らすものはいつまでも浮かんでは消える政治家の恫喝のうたかたにしかならない。資本論の本が厚い? あれは厚さで素人を驚かす芸です。 
 まあ、悪口は置きます。
 ともかく現実解明の場合は、叙述者には、ヘーゲルのようにある規定性のほかに別個に出現し進展している規定性をもう一つ入れる余地があります。これを理論に組み込んで結論というべき解明先へ向かえば、ここに正反合の弁証法が完成するのです。これで読者は、「ある規定性が別の規定性を組み込んで、この現実が初めてできているんだ」と知ることができるのです。
 3つじゃ単純? 他の要素はどうなるんだ?
    、、、って。
 人間、そんな頭よくねえの。頭がいいとされる人間のバカさ加減は全ての学問の学史で証明されているし(てゆうか、頭のいい奴の多くは昔から教授にはなりません)、今でも学者連中の「あんなのが教授」という賃金取得の事実で証明されています。疑問に思う方は自己の力で4つ以上の場合を証明してくださいませ。できたらエンゲルス、隈の次に来る天才ですよ。いや実際、中高年過ぎるともう自分の名誉はいい、若人に禅譲したいと思うものです、お前に何の名誉がと思うかもしれませんが、アカデミズムはバカばかりだからもう20年も前から自己の褒章権によって安心立命(ほんとは30年前からもう理論家1位は堅いと思ってた)。とにかく我こそはという方には期待しますぜ。
 まあ、悪口は置きます。
 で、それでも頭の中で4つ目が出てきたときにはどうする? それが既存の2つのどちらかの規定性を受けるならそちらに入れる。しかし、全く別個なら誰にも理解不能。それはもともと縁のないものです。論文を別にしましょう。


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 追加

 (番外)許萬元の武市健人への正しい批判の誤り
 この題でぴんと来た人はお年寄りだね。「もう弁証法はいいよ」という声なき批判の念に耐えかねて、この辺に追加します。
 
 さて、この間に書いた理解は宇野の資本論とかから自分で考えたものではありますが、前にも述べたとおり、武市健人と一緒で心強く思ったものです。
 が、世の中には許萬元さんという方がいらして、もう亡くなられたんだね。50年前は新左翼系の哲学者だったぜ。内田弘かなんかの本の注に載ってて、ああそういえばいたな、と調べてみたら『弁証法の理論』(創風社 上下巻 1988年)というのがあって、金持ちのSt区図書館から貸してもらいました。 
 で、これの下巻に武市健人の批判が載ってて、許氏、武市はこうこうだ、というの。「おう、その通り、頭いいじゃん、私の理解と一緒。だから正しいのさ」と思ったら、先生、だから間違っているとかいうのさ。
 ほんと哲学者やマルキストは困ったもんだ。何が違うんだよ、と思ったら、どうも彼氏「正しいものは一つだ」と思い込んでいる。やだね、ブント・構改系と思ってたが(ほんとのことは知らない)そのせいか。「対象自身の真理としての本質性、つまりそれの必然性や法則の反映」なるものが存するという(誤った)思考から離れられないのだね(同書上巻P183)。あるいは、ヘーゲル批判で使った「実践しないと真理に行き当たらない」という古典的なスローガンのせいで、思弁で真理はつかめないと思っているのか。
 「武市の弁証法天下り的だ」とか悪口のつもりで言っているのだが、社会科学というのはそういうものだよ。科学の理論は研究者が一人でたたき上げるものなのだ。もちろん、それがグループ作業でも同じことだが。実証学者ならみんな知ってることだ。そんなものを100%真理だなどと思っている実証学者はいやしない。そんなもんは高校生かきちがいだ。で、科学者にそれ以外にどうしろというのだ? それよりそんな世界に唯一の真理があると思うほうが神がかっているとしかいえないぜ。っていうか、バカか。
 などとご本人様に言ってもしょうがないが、この人も教授だったからお弟子さんがいるでしょ。ご批判はどうぞ。こんなものは糞の役にも立たない広松の弁証法と一緒。あ、広松の弟子の方からでも批判はどうぞ。みんな先生にお世話になったんでしょ。
 とはいえ、理論の正否を分けるのは当人の理解力じゃないんだ、と、まじまじと知ったところであります。
 
(注意)当該書、上巻は本人著の「ヘーゲル弁証法の本質」、下巻は「認識論としての弁証法」と同じです。ダブリませんよう。