リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

現実規定の始元とは

 こんにちは。いよいよ大寒。冬も峠を迎えます。私などはいつも1月29日が一番寒いと知識化しておりますが。 wikiによると29日は鈴木奈穂子アナの誕生日とか。夜7時のニュースアナ。昔は明るかったのになんであんなに短調声になったんでしょうかね。本人気づいてないのかしら。まあいいか。記念日的にはポーの「大鴉」の発表日だとか、こっちのほうが冬っぽくてよいか。
 
 前の土日はセンター試験でしたね。朝日新聞には問題の折込みが入るのですが、相変わらず虚しい問題ばかり。ちょっと目を通してみると、日本史、地理、社会はいいとして、世界史なんてせいぜい70点。自分の大学受験では日本史と世界史でしたが、その知識はまったく無意味。今解答できるのはいつも受験参考書を読んでるから。世界史参考書もいつも2冊読んでるのですが、アジア史んとこなんて見ないから世界史はダメ。あんな虚しい勉強を続けられるのが条件だから有名校にはアホしかいない。翻訳すると、高校生に大人のような主体的な勉強ができるはずもない、といっているのですが。詰め込んだ知識など使わなきゃ半年で消える。
 ところで、ムーミンはウケ狙いですね、ムーミンに国などあるはずもない。(注:センター試験地理に、ムーミンその他の漫画の住居国を当てる問題が出た。)
 と思って問題を見たら、まあ漫画に関係なくできる問題ではありました、が、私など義憤を感じて次の問題ができなくなりそう。

 地理の受験参考書もよく見ますが、地理は簡単でよいね。昔からそういう定評だけど。でも覚えても何も頭は良くならない。昨今驚いたのが、平野克己「経済大陸アフリカ」という本。アフリカはすでに80年代くらいの本を10冊くらい読んで概要を一通り押さえたかと思ったのですが、とんでもないね。90年代以降、鉱産物(石油)資源で、あちこちの国家で、1国内部で局所的に大金持ちになっていました。これがまずいんだよね、一部のやつだけが儲かる構造が。平野という人(たち)も憂えておりましたが。
 で、この私に生じた知識の断絶ですが、昔はアフリカは人文系の知識だったんですよね。文化人類学系というか、民俗学とか、民族学とか、大使館員とか。そんなんでないと需要がないし。
 これに対して、私が驚いた平野氏グループというのはアジア経済研究所の開発経済担当なんだって。アジア研っていうのは、昔は東南アジアの人文研究所だったのだけれど、今はジェトロに一緒にされて後進国貿易開拓の尖兵となっているもよう。で、現代アフリカというのはここの人たちだけが研究してるのだって。以前このブログで、後進国経済で「マルクス系の研究者はなにやってるんだ」、とけなしたことがあったけれど、アフリカ経済は何の資料も入手できないから、事実上他の機関員には研究できないんだって。現代アフリカ論の大学教授にはここの中堅研究員が派遣されるんだと。
 まあ平野という人は良心的なのですが、それにしても政府偏向してますからそんな人たちばっかりで押さえられる研究分野というのも困ったものです。
 ということは他国も同じ、というわけで、地球のためにアフリカの出生率を下げさせてやるとか言った米国研究者がいたようで、平野氏も怒っておりました(たしか。以前に読んだので)。出生率など、子供の単純労働力がゲンナマに化ける時代には下がるはずもない。たとえゴミ拾い仕事だろうが。 
 
 なんて、今日もオタク本の話です。
 マンガの代わりではなく、本気で借りた本、榎原均『「資本論」の復権』(1978)なる本。たくさん情報があるようなのに、ぜんぜん意味不明。題材は宇野弘蔵批判なのですが、悪口は分かるが、本人がなにをいいたいのかわからない、分厚いのを見終わって、疲れてぼんやり題を見てひらめきました。ああ、「復権」ね。戻れというのね。やっと分かった、宇野経は資本論の趣旨と違う、といっているだけなのだ。 
 どっと力が抜けました。そんな話のために、二段組、ちっこい字で373ページ。
 そんな話は想定もしてませんでしたよ。宇野本人が俺はマルクスとは違うといってるんだから、それを違うといったってなんの意義もないではないか。そんな話だけなら共産党系でもう何十冊も読んだ(=目を通した)。しかもふつうは、「ほらこのとおり、何々で違う」、と書いてあるのに、これは全編悪罵で埋め尽くし。そりゃそうだ。「宇野には階級支配の視点がない」といってるだけなんだから他に書くこともない。そりゃ実際そうだから正しいさ。だからどうする? 「資本論を見よ」それだけなのだ。自分で分かりやすく原論を書けよ。なんのための学問的営為か。チャーシュー入りの五目日本蕎麦を食べて、宇野が「いやこれはどうも蕎麦の味が分からない」、と努力して「究極のかけそば」を作ったのに、「いや、これにはチャーシューが乗ってないから栄養がない」、とけなしてるようなものだ。そんなことのために本はいらない。要するに党派の政治活動に使えないものはみんなダメなんだ。呆れた。
 で、あなた、今は? (この本を書いた)40年前は穏健派にはずいぶん悪口を言いたい放題でしたぜ? 考えが変わったって、HPにはこの本の宣伝は載っていても自己批判は載っておりませんが。
 まあ右端まで転げた人間たちよりはまだましというべきか。

 で、引き続き、本気で黒田寛一「宇野経済学方法論批判」を借りました。こっちはずいぶんと良い、これはこうだからこう悪いと書いてある(しかし悪かあないぞ)。もっとも昔見た時の感想のとおりで、あまり自分に進歩がないなあ(謙虚)、と思いましたが、今回、増補版で長い「あとがき」が増え、これがよかった。いちいち分かりやすい。他人への非難も当を得ている。悪いのは突然無根拠の「すべき論」が入ることだけ。まあ、これが哲学だと思ってるんだからしょうがない。基本、黒田も年取ってまともになったか、と思いましたが考えてみるに、これはセクトの部下による聞き書きだよね。なんでも人にわかるようにするには他人に語ってみせる、というのはとてもよい。講義録の最好適条件ものということなんでしょうね。 

 そんなことをいってもためにならない。ポイントを書いておかないとね。
1 「労働力の商品化は資本主義の基本矛盾にはならない。労働力商品は資本の反照規定であってこの両者は矛盾的自己同一をなす」から論。これは黒田派のおハコのようですが、違いますね。武市弁証法の示すとおり、論の始元は片側でよい、あるいはそこからでなければ動きようもない。自分でやったことがないからわからないだけ。

2 かたや、武市先生のコメントも載っていて、宇野の原論は使用価値の原理が無視されているので、資本主義の全体に至らない、と苦言を呈されております。これも社会科学を知らない人の言で、まあしょうがない、哲学者だし。始元というのはそれを含む全体を構成する端緒です。まあ釈迦に説法。したがって、そこに現れるのは資本主義の仕組みである。ところが人間の「現実」は実は仕組みではない。歴史なのだ。あるいは時間なのだ、といったほうが本質的である。お釈迦様方は、この辺は「思い出した」でいいかね。マルクス主義者ならそんなことは誰でも知っている、はずだ。もっとも「はず」でしかないことも当然。だから歴史の始元が労働力商品であるはずもないのだ。もちろん、商品でもない。宇野に密着して言えば、それは労働力の商品「化」である。「商品となること自体」が資本主義社会の全体を明らかにし、その生成と発展と腐朽を明らかにするのである。すなわち究極的に「商品とならない事態」の直前までを明らかにするのである。「化」を始元として「化」にかかる原動力が展開されるのである。
 分かったかね、弁証法の威力を。誰も知りゃあしないからお笑い種だ。ヘーゲルにそんな規定はない? しるかバカ者。

 しかし、「ああなるほど、事的世界観ですね」 なんていわれたらどうしよう。桑原桑原。