リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

イデオロギーからの自由(その2)

前回の直接の続きです。

人間、自分の思想に捉われても不満はないが、イデオロギーに捉われるのは不愉快です。
でもないかな? 中高年は。もう慣れ切ってるかも。
ま、このブログの読者は、多くは若者と考えましょう。
  ここんとこのポイントは、自分が表現すべき自分の思想が、自分の倫理として自分自身の生と一致しているかどうか、という潔癖性ですね。要するに、自分の生とは自分が表現して作っていくものだ、その大事な表現が、本当に自分のものなのか、という点。
  そりゃ、そんなことを考える余裕がない労働者はたくさんいるわけですが、人間の生産様式って、これをクリアしないといけないように進展してるわけで、かつ、ここでいうイデオロギーを口にする人間たちは、困窮労働者じゃなく「世間でうまくやってってるやつら」なわけです。私も含めてですけどね。

さて、そんなイデオロギーについて、世の中、イデオロギーから自由になることができる。
社会の役割を果たす人間は、それを大義名分に何をいうのも勝手だ。しかし、同じ理屈で回りの人間はそんなヨタ話に付き合う理由などない。資本主義社会とは、生産関係から抜けて、行為をする場が確保されている、自由が進展した社会なのです。もちろん限定的な自由ですが。
しかして、部分的に自由な人間は、そんな、社会圧力で口を買い上げられている人間を、憐憫の目で見ることができる。
自由な人間、そんな生産関係から抜けている人間であれば、イデオロギー表現の圧力を抜けることができる。
逆にいえば、社会 (の生産関係、自分の消費物資のやってくるおおもと) が押し付けてくるイデオロギーから自由になるためには、そうした状況そのものから抜けることが必要なのです。

すなわち、権力からの自由。