リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会科学と歴史性

 こんばんは。お寒うございます。
 冬なら勉強ができると公言してきた私、今年はダイエットのせいか、腕まくりの○○といえば、ちょっとは地域的に知られた私が、とにかく寒くて何もしたくない。
 代わりに暑い夏に生産性が上がるとすれば、それはそれでよいんですが。

 さて今日は、こんなつまんない題でいらっしゃったあなたが悪い、梅本克巳と宇野弘蔵の話。
 といってもマイナーすぎというか古すぎるというか、要説明。二人とも死んでしまいましたが、前者は主体性倫理学者で、後者はマルクス経済学の再生の祖、後者はこの人がいなかったらわたしも余計な時間を10年は費やさなければいけなかった、みたいな重要な人で。
 
 で、初めの一歩は「社会科学と弁証法」(こぶし書房)、製作中の次回作品の弁証法の欄を膨らませようかと図書館で借りた二人の交換日記みたいなもんなのですが、これがあにはからんや、意味がない。内容といえば、水と油の二人なのに、梅本が混ざり合わないものを混ぜようとして、宇野が困惑しているという本。宇野も梅本の気持ちにだけ押されて、「どうしよう、悪い人じゃないんだけど、そんなこといわれても」、みたいなもんで、皆様、別に読まれる必要はありません。こぶし書房もいいだももの解説を載せるとか、鷹揚なものですが(昔は某セクトの宣伝専用社)、本来そうでなくちゃね。私だって梅本もいいだも評価しませんが、ちゃんと読みますもの。

 で、本題。宇野が「経済学は資本主義の勃興により、やっと科学としての経済学となった」という持論、おっしゃるとおりの何十回も読んだ話にふと思ったところ、私の理論も、歴史的に今しかない話だよなって。
 
 一般化しましょう。
 資本主義初期までは、人々は食べるだけで精一杯だった。資本家は太り、労働者は野垂れ死ぬ。第三者である社会科学者はその社会の敵対的構造に、隈理論でいう「生理性」レベルにさえ焦点を当てれば済むと思った。飢えれば革命するだろう、みたいなもんですね。
 私だって、昔だったら労働貴族の方ですからね、昔生きてたとしたらそんなふうに思い続けて死んだかもしれない。
 ところが、資本主義爛熟期の先進国日本ではそうではない。
 今は、住む家さえ確保していれば、所得税非課税世帯であれ、その暮らしは「生理性」レベルだけで済むものではない。人の生活レベル、たとえば「夏になれば標準米だけではなく、そうめんも食べたい、だってそうめんなんて東京じゃみんな食べてるよ」みたいな話、ふつうわかんないでしょ。ほんとの貧乏人て今でもそうなんですが。まあ、一般人民にはわからない。みんな携帯電話持ってCMどおりの買い物してるでしょ。にも関わらずホームレスになる。
 だからね、生理性レベルの話だけしててもだめなの。
 そんな時代であれば、宇野弘蔵に加えて、賞賛や優越、自発性の行為原則が重要となる。(マルクスに加えて、じゃないよ)。
 
 で、今はこれだけでよいはずだが、これは共産主義過渡期社会においてもそれで社会科学として十全かといえば、おそらくそうではない。 
 ポイント。社会科学とは、そこで生きている人間の生き方を因果連関として定式化するものです。いくら正しかった法則的事項でも、生き方が変われば、社会科学に限っては古い理論として整理されざるを得ない。生き方って、本人と外界の相互作用ですからね。
 隈理論は、あと20年後、一世を風靡して、しかし、あと200年しか持たない。
 
 それで、結構ですけどね。
 私も、他人もこの社会で生きるしかない。150年前のマルクスと同じくね。