昨日は、休みが続くので難しそうな本でも読めそうだと図書館の社会学コーナーへ。(いつもは気晴らしの本しか探さないのですが)
ふとみると「希望格差社会」なんて本がある。「希望」という言葉に反応してぺラッと見てつまんなそうだったけど、隣の同じ著者の本へ。こちらにも中に「希望」という文字があり、さらに、「以前は機能していた学校制度のパイプラインから漏れが生じたのがフリーターだ」なんて趣旨が書いてある。
『そんなことがあるもんか、そんなものを「漏れ」と呼ぶなら昔から漏れっぱなしさ。なんだね、昔は単純労働者はいなかったのかね、小零細企業は終身雇用だったのかね。この人はいったいどんな学校制度が好きだというんだい、帝大と高等小学校の2通りかね』 と思いながら週刊誌を借りる感じで借りてきました。
彼によると、努力が報われる想定がつくということが希望があることなのだそうで。その反対語は努力が報われない、ということになります。端的に言えば、一生懸命働けば、高収入が得られるというのが希望のある形態なのだと。
そうじゃないでしょ。
そんなもん、一般論にするなよ。
(だいたい、このおじさんによればある人の給料が高いのは「生産性が高い」仕事だからなんですって。東京学芸大学教授の仕事は、東京学芸大学非常勤講師より生産性が高いのですぞ。なんだね、センセは何を生産してるつもりなのだ。米1石でも作ったのかい? 社会学史でよりよく教えられるから、週にかけもち10コマ教えている非常勤講師の4倍も給料をもらえるのかな?
要するに、「生産性が高い」というのは「そいつにカネを出すやつがいる」の翻訳語なんですけどね。似てるからっていうだけでくっつけちゃ、「理論」の名が泣くわね。)
まずは、一般論でいうと、報われるのは努力じゃなくていい、人は行為の将来が手に入れば報われる。「行為も努力でしょ」と呼ぶならそれでもいいが、そこで言ってる努力は、何ヶ月も何年もかけてする行為じゃないからね。一般論では、「恥ずかしいのを我慢してデートを申し込んでオッケーが取れれば」報われるのですよ。明日のデートを申し込めば、相手は受けて「くれるかもしれない」、それが希望でしょ。
なに、努力が報われるって。なに、一生懸命働けば「高収入」が得られるって。
俺らそんな風に生きていない。
給料を高くする努力と、希望とどういう関係があるんだ。給料が安いのは、飯以外に食えないし、携帯以外に遊べないから絶望なだけでしょ。なに、給料を高くする努力って。努力は毎日してるじゃないか。毎日の仕事そのものが努力なんだぞ。違うか。それ以上何をしろというんだ。今と同じに毎日一生懸命働くから普通に食わせろっていってるだけでしょ。
いったい「高収入があたしの希望」なんてやつは、勝手にしろというもんだ。普通の収入をくれ。それに「希望」だなんて尾ひれをつけんじゃないよ。希望は希望さ。いつか人並みに暮らしたい。家族なんてあるのもいいじゃん。ゴルフって面白いのかな。それと「一生懸命努力すれば、高収入が得られる」と結びつけんな。
でですね。不愉快なのが、この努力の経済語換算テーゼ。苅谷剛彦については前に著書でいいました。なんでいちいち人間の行為をカネに換算するわけ? そんなんだから希望がなくなるっていうのがわかんないのかな。
生産性がどうのって、いってることは「単純労働者にはカネを払わないよ」っていうことだけなの。
なら、そのとき、ある人間、ある若年労働者は「単純労働に仕方がなくついている人間」ってだけじゃん。
なのにこの先生に言わせると、彼は「生産性が低い人間」なのだ。
あんだよ、それって人格の否定じゃん。わけわかんないよね。あなた、弱いもんの味方のつもりでしょ。
「労働者の生産性が低い」んじゃない。「単純労働で代替の簡単な職種についている」だけなのだ。それは社会の問題なのだ。代替を困難にするのが国家権力の役目なのだが、誰もそれを指摘しないばかりか、「派遣業法」だ。
お前も私も同じことを言っている? じゃあ、同じように言い換えればいい。でも言い換えやしない。そこが評論家というものです。
というわけで、評論事業とは何か。
端的に言うと、世の中の正義にのっとって、自分の言いたい言説を広めることです。
「正義」というのは、発言者の中で「この内容は、権力に保障されているぞ」という確信のことです。
国家の法であれ、神であれ、社会が承認しているはずの道徳であれ、この内容が権力に承認されていなければならない。発言者としては、その権力や強制力の存在を認知しているということです。
まあ、人間の場合、こういうのは「認知」というより「感知」に近そうですね。
言説は何でもよいのです。しかし、それを乗せるワクというものがある。ま、土俵ですね。同じ土俵であれば考慮してやるよ、というワクのうち、権力から提供されたものが「正義」です。
権力の源泉は、自分たちの制約主体ということですね。これにはいくつかあります。
まず国家的中央武力権力。「的」というのは国家とつるんでる経済権力も含む、ということで。
(隈の体系では、いわゆる国家権力が武力を条件としていることを際立たせるために「武力権力」と呼ぶことが多いです)
これは政府権力を引き回す代議士やその取り巻き、あるいは経済組織高官や評論家、さらに経済権力を引き回す経済組織の配下たちとさらにその取り巻きの大企業予備軍、みたいなところですね。
ついで、共同体内的権力。
発達した資本主義では地縁的な共同体はありませんが、社会組織の内部にはたくさんの共同性がある。食品製造会社で、「これ店頭に並ぶ頃には消費期限切れ、、、あ、ラベル変えちゃうんですか、だめですよ」なんていえない。原子力研究所で、「この新発電所の建築設計図のいいかげんさはなんですか。これじゃいつかパイプ崩れちゃいますよ」とはいえない。それは昔、厚生省で、「3年で電算化なんて無理ですよ、どんだけデータがあると思ってんですか。閣議決定だ、って、、、そんな無茶な。大体でよけりゃやれますが」といったのと同じです。別に社会保険庁の肩を持つ気はありませんけどね。まあ日頃の行いが悪いと誰も助けてくれませんな。
次に、昔でいう宗教組織というのがありますね。
これは2つにわかれて、第1に、権力上の知の操作。
つまり、権力の維持には知識を操作しなければならず、この操作人が少なければ少ないほど、この権力は強くなるわけで。
たとえば帝国大学が日本で1つの時は、卒業生は「末は博士か大臣か」でした。まあ、そうなると帝国大学以外にも知識の源泉は必要で、知的操作に関わる人間、その他の学士や学生崩れや文筆業は、権力者モドキと認定されます。
第2に、これら3つの権力の伝達。
知は、権力の伝達に伴う賞賛≒「教養」として、大衆がこれを知り活用することに、賞賛を内在させます。
最後に、宗教的認知そのもの。
まあ、信仰というか倫理的確信というか。私のような裸一貫ではこれ以外にありませんな。私の観念が正義であることには何の根拠もない。どんな権力者もお前が正しいとはいわないし、ウチの社長もいうわけがない。根拠ゼロ。でも「これが正義だ、正義は勝つ」といえるのは、理論上、神がいるんだ、ってことになります。だからって、別に信仰であることに何の後ろめたさはありませんね。ひがみぐらいはあるかな。
ともかくも、評論家というのは、これらのどれかに乗る必要がある。そうでなければ、論は売れない。売れない論を説くのは評論家ではない。格差の是正を主張するときに、二昔前までの評論家は必ず「労働組合の組織化」も挙げたものです。「単純労働でも労働者の代替が容易でなければ労働条件は低くしにくい」ことは教授ともなればだれでも知っている。ちょっとぐらい言ったら? 今日の現実には空語に近くても、やってる人は力づくんですよね。
でも無理でしょうね。それは 『同じ生産性なのに、あら不思議、給料が上がる』 ってことだから。センセの論理が成り立たない。
って、あーあ、私の正義は勝つかなあ、、、
(注)山田昌弘「新平等社会」文芸春秋、2006.
それにしても山田の背景議論はひどい。「では、なぜ生活水準の格差が生じるか。ここでは、家族や国家、そして、資本所有などの影響を除いて、純粋に自由な経済活動の格差によって、生活水準の格差が生まれるメカニズムを示そう」(→イチローの所得が高いのは、イチローが多くの人を喜ばせるからだ)
って、資本所有の影響を除いて何がいえるんだね? イチローの所得が高いのを明らかにしてどうするんだね?
まあ、社会学者だから正直にちゃんと前提を書いているところが良いけれど。社会学者の8割は人がいい。それはいいが、読んだ若い人たちは、そんな前提など目に入らない。「ああ、大銀行のサラリーマンの給料がいいのは生産性が高いからなのね。あたしは信用組合の派遣社員だから生産性が低いのよね。しょうがないわ。」
そうなんですか? 山田先生?
まったく。マルクス系経済学者は、ジニ係数などを使う現代社会に少しでも知見がある人なら一目でバグが割れてしまう危うい議論(橘木(マル経ではないね)))などしていないで、基本的なところで議論の最低限を作って欲しいものだ。