リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

再三のように「生産概念」

 こんばんは、春ですね。ここで普通ですと東京地方のサクラ情報を書くのがおなじみこのブログですが、ちと不愉快で。

 ここんとこ、次期配本物の構成上の問題で、ちょっとマルクス主義者の歴史過程論を見直して。
 で、くだらないのだけど、いわないといつまでもひっかかるイワシの骨のような話を。
 
 マルクス、資本制生産に先行する諸形態、岡崎次郎訳、青木書店、1959.
( 私はあまり訳者名をいれませんが、だって誰が訳したってそうそう中身は変るわけじゃありません、だけど、岡崎という人も報われない訳者なので、わざわざ書きました。良心的によく訳していると思います。)

 (ここにマルクスが示すモデルがマルクスが考えた歴史順だと思ってるバカはほとんどいなそうなんで、いまさらいいませんが、それをおいてさえ)
 所有所有って、ばかいってんじゃねえよ、みたいな叙述の果てに、いわく
 ”所有は生産の諸条件に関連する。なぜ消費の諸条件に、ではないのか、それは個人の生産行為は主体の側の能力の生産を必要とするからである、云々” pp.42-43。
 ったく。これさ。
 ばか、さらさらいってんじゃねえよ。おめえ、どんな行為を「生産」ていってんだ?

 マルクスの「たかり」生活を生産とうそぶくことは、マルクスは納得しても労働者は決して納得すまい。私は労働者として納得しないぞ。
 政治局員のカンパ収益が彼らの生産だといって納得するマルクス主義学生同盟なり諸共産主義者同盟員がいるだろうか。、、、いいやいまい。って、いたら笑ってやるだけだが。
 たかり行為はただの人間の一行為にすぎない。
 人をたぶらかして偉そうな顔をしている、乞食以下の行為だ。
 上記は、乞食の行為も私は納得していない、ということではあるが、世の中、「しょうがない」ということはある。とりあえず明日食べなきゃ死ぬときには、乞食をすることも胸を張ってすべきだ。
 しかし、そうじゃねえぞ、マルクス、および政治局員。お前らの生き方は生産ではない。お前らは何を造ってもいない。それが「生産」なら生産カテゴリーなど何の意味もない。もちろん、どうであれ何の意味もないのだが。
 お前らの行為はただの「行為」そのものにすぎない。
 「生産」が社会科学的カテゴリーでありうる根拠は、食うためにする行為がすべて支配者にからめとられている、その中で食うために行為する存在が歴史の動きに関わるためそれを表すために意義があるのだ。
 タカリもカンパもヤクザも、そのどれも上記社会科学の範疇には乗りはしない、それは上記社会科学の中で人民とは離れた、「逸脱者のエピソード」に過ぎないのだ。
 反論があるならしてみろ。
 
 さて、もちろん、われわれアナーキストは全人民の味方だ。
 「社会逸脱者」で何が悪い。
 マルクスにもヤクザにも、生きる価値がある。
 、、、て、他にそんな仏様のような慈悲深い左翼や右翼がいるか? いや、いない。全人民を考慮に入れられるのは、アナーキストだけだ。
 そんなアナーキストにとって、根本は、社会のダニのようなマルクスでも生きてゆかなければならない、だれでも消費しなければならない、そんな消費の構造なのだ、
 
 
   てなわけで、ちょっとこのところ花粉症と花粉症薬アレルギーで体調が悪いので、しばらく黙ります