今日は昨日の続きです。
テーマは、「道徳には諸権力以外の伝達根拠はない。では、なんの権力もなしに良い人間と悪い人間を言い分ける根拠は何か。」
私の立場はアナーキズムです。
アナーキズムは「無政府主義」と訳しますが、もとはといえば「無支配者主義」ということ(だそう)です。
誰であれ、私を、そして私と同等なあなたを支配することを許さない。という主義です。
人は個人として自由でなければならない。
個人は、個人として自分で将来を決めて、しかも、どんな個人でも生きていかなければならない。
この「しかも」があるかどうかが本物の絶対自由主義者か、ただの資本家の宣伝マンの自由主義者かの違いです。
資本家の下僕達は自分だけが生きていけばいい。それもいいでしょう。ただ、そういう諸君は革命で殺されても文句をいわないことです。そういうのを「お互いさま」といいます。人が生きる原理はとてもシンプルなことなのです。
さて、思想とは他者の行為変更の努力のことです。国家の思想、宗教の思想とは、国家や神の名のもとに、他者へ行為を強制することを意味します。他者とは個人のことですから、国家体制下の思想はアナーキズムの世界には存在しえません。
ではアナーキズムでは、何をしてもいいか。
この「いいか」、という問いが存在すること自体おかしい。
すべては、自分の心以外にとっては許されている。自分がいいというならいい。
しかし、自分に悪い行為は自分には許されていない。
アナーキストの他者への思想は、何も難しいことではない。「私はこうするのがいいと思うからこうしたら」です。
友達の間では当たり前ですね。
この当たり前さがアナーキズムです。
国家が存在するのではなく、友達が存在する。
私は私の倫理の名において、良いと思うものには良いという。自分が良いと思うのにはとりあえず根拠があるから、友達にも奨める。
「そんなんで社会が持つか?」
社会は思想で持っているわけではない、ということを知っていただかなくてはならない。
思想の前に、友達が存在しうる社会でなければならない、ということです。
「そんなんで真理が伝わるのか?」
行為には真理なんかない。であれば、他者へ伝える思想の存在形態なんて、推奨という以外あるわけはないのです。
個人は絶対です。どんなやくざだって人殺しだって、彼らは彼なりに生きている。ぬくぬく生きている人間が偉そうに説教をいえる理論的根拠などない。彼らには、社会的に罰する権力という根拠があるのみです。
絶対自由の個人の相互世界には、かえって絶対性はありません。
個人が絶対であれば、思想は真理ではなく推奨にしか過ぎない。
問題はそれを可能にする社会です。だから、アナーキズムは社会運動なのです。
(注)真理の根拠などない、といったが、神様が好きな人でもそれは同じことだ。どんな教義も、たかだか人間による翻訳だから。
(もっとも、とりあえず世間の人が伝える神様は、みんな私の倫理観とは相容れない。それは私の倫理観に劣るということになるが、人間より劣る神など神ではない。まあ、それは伝える人間のせいだということにしておこう。)
宗教を信じるのも選択だから、神がいる、といってもいいのだが、それは自分が真理だ、ということと同じだ。そこでだ、神ならぬ人間に、「私の中の神がほんものだといえるか」、いいやいえない。したがって、神がいる場合でも、それが人間が伝える不十分な神ではなく崇高な神がいるということであれば、やはり他人には行為を真理だとはいえない。教義の歴史上さんざん誤りを重ねてきたカソリックの神父たちは、当然納得してくれると思うが。歴史を持たない自分だけのプロテスタントの牧師には、唯我独尊でいいっぱなしの責任不在だから通じないのだろう。人間、自分だけが正しいと思ってはいけない。