リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

アナキストの必須要素とやら

 こんばんは。今年はやけ金木犀が匂います。いつもよりヒマ、というのもありますかねえ、それだけじゃないと思いますが。しかも匂うのが早くないですか? 東京地方では年来、10日が中日だと自信を持っていうところですが。

 さて、趣旨不明なお客様数が相変わらないところ、じゃあ、と、も一つ真面目に。
 行きつけの図書館に高祖岩三郎という人の「新しいアナキズムの系譜学」(河出書房新社 2009)という本があったので、ま、仲間内意識で借りて読みました。(前からあったのですが、立ち読みで中身を勘案するに、わざわざ読むには忙しくて。何度も言うようですが今はちょっとヒマ)
 聞いたような名前の割に(高野岩三郎という労働運動家がいる)まったく知らない人ではありますが、その始めの一節
「昔も今もアナキズムは、国家権力の奪取/統制を段階的にであっても認めない」とかって、なんじゃそりゃ。
 困ったものだ、55年生まれ。
 それじゃ美術評論家ではいられても無政府主義者にはなれませんぜ。
 だいたい、私でさえ読みたくないような美辞麗句で埋まったご本、こんな売れなそうなのよく出せたな河出新社、と思って検索したらあらびっくり、高祖氏の名前で3万件近くヒット。
 いつから人民はそんな高尚になったのだ、と思ったけど、思想のご商売の方は日本にたくさんいるのね。
 考えてみればニューアカの人たち(ニュー・アカデミズム。新しいアカの党派ではありません。20年位前流行った文化至上主義者の人たちのことをいいます) もこの国のどこかで中堅分子で残っているんだよね。

 ま、そうした人民に関係ない本とはいえ、この言葉のまんまじゃ無政府主義も夢や幻の物語だからなんか付言しとかないと、ってわけで。
 古いアナーキズムはそんなことは言わなかったよ。
 ダニエル・ゲラン「現代のアナキズム」 江口幹訳(三一書房 1967).
 こんな「現代」は当時の中学生にはなかったのかねえ、当時の高校生にはあったよ。
 
 今現在、国家なくして1年後も生きられる日本人民なんて1割もいやしないぜ。国家強制装置が消え1年もあれば、資本家の言うことを聞かない労働者は続出し、これを阻止すべく資本家は傭兵をやとう、こうなっては諸契約はないも同然、商活動は停止、国家の後ろ盾がない円は無価値、預金もパー。さて、わずかの権力者と傭兵をやとった富裕農民くらいは生きていけるか、というところ。

 そんなほんとのことをいうお前は無政府主義者じゃないのか、って。
 そりゃ無責任主義者じゃないさ。
 人間の現実がそうなら現実を生きるしかないじゃないか。
 
 国家の廃絶というものは、先進資本主義社会の継続社会にあっては、複雑化した産業生産について経済の諸調整を執り行う機関を国家の替わりに設置するしかないのだ、ということを認識しないで済む無政府主義者がまだおったのかよ、てなもんさ。アナーキストの伝統的な用語に沿っていえば、集合的な連合機関において各生産は(初期の時代には、交換手段(≒マネー)さえも)統制(がいやなら意思的にコントロール、、、ばかばかしい。統制さ。)せざるをえないのだ。そんな機関、50年でできたら奇跡だぜ。全ての宗教を信じちゃうよ。
 
 こんなシンプルなことさえ考えないで済むなんて、なんて幸せな人間たちか。
 何主義者を名乗ろうが、好きだろうが嫌いだろうが、現実を見ないですめばなんだって「できる」といえるさ。そしてそんな生き方はアッパラパーの幸せな軍国主義者と同一のレベルの生だ。

 いやね、冒頭のその手の言い方もあっていいし、そう言いたい人たちもアナーキストであっていいし、美術評論も好きでやっていいのだけれど、それ以外「認めない」なんていうのは傲慢というより笑っちゃうよ、という話で。いつまでも批評家さん。
 いやさ、そういう私のような理論家も気軽ではあるんだけどね。大変なのは、現実に今動いている人。そういうい人は嘘と知っていることでもとにかく口に出さない限り運動にならない(って、スターリニストっぽい仕業だけどね。世の中ってそういうものだから)。私もそれを知っているから、その手の言い方もあっていい、といっているわけで。
 最大限、「昔も今もアナキズムは、国家権力の奪取/統制を段階的にであっても『許さない』」とかいうのが社会に対して、あるいは人民に対して、責任ある態度だね。
 私たちは国家など許しはしないがしょうがない。この夜が明けたら明日が来る、なんて話は子供たちの世界だけだって。大人というのはこの世の先はまた闇、しかし300年先の明日を見ることができる。
 人民はそうやって生きていくしかないんだよ。