リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

将棋雑感、または「道筋の整理」

 ようやく暖かくなってきた東京地方、まだ梅見にいく気にはなれないけれど、単純に体力の問題かもしれない。昨日成人検診なんか受けたけど、太っちゃって体が重いのだろうか、、食べてないのに去年で3キロ以上太っていて、止まらない。

 世間で唯一受け入れられる情報はオリンピックニュースだけど、サーカスの曲芸のようなウィンタースポーツにはサーカスの娯楽要素しか感じられなくて、ポップコーンが欲しいよね、ってサーカスにはポップコーンね。
 ただ感心したのがアイスダンスというやつのアメリカ代表。マディソン・チョックとエバン・ベイツというの。まずスタイルで勝ってるし。そのスタイルが「闘牛士」を踊るんだね。曲は聞き間違いじゃなければローリング・ストーンズ ”paint it black"。もう非の打ちどころないじゃん。スケーティングがどうでも、わたしにはわからないし。
 もっとも「スタイルで負けてる」と思うこと自体、西欧文化に侵されてるんだろうけどね、ってオリンピック全部が西欧文化じゃ。アフリカ文化がんばれ。日本文化はいらない、酋長が生きてやがるから。
 子供のような出演者の中で、今日は平野歩夢は7位、「生きるか死ぬかみたいな気持ちはどこかに覚悟して臨んだつもりだった」「生きててよかった」(毎日)
 だって。そうだよなあ、そんな大人への中間地点、体バラバラでもえらいもんだ。

 ところで、国際的な普遍的現象というものもあるようで。
 「「本当にひどい」19歳のスキージャンプ女子選手が誹謗中傷にショック 母国スキー連盟が異例の声明「スポーツ批評の境界を越えている」(THE DIGEST によるストーリー)
「24年のパリ五輪でも問題視されたアスリートに対するネットやSNS上の誹謗は世界中で後を絶たない事態が続いている。」そうな。
 おお、日本だけではなかったのね。外人の子供は耐性があるかと思ったけど、子供は子供か。
 ちなみに4年前は「国際オリンピック委員会IOC)によると、パリ大会期間中、参加選手や関係者への中傷と判定された投稿は1万200件以上に上ったという。」(ニッポンドットコム)だと。今回は日本だけで既に6万。
 もっとも上記「世界中」というのは嘘で、中等以上の資本主義国ね。そのぐらいには普遍性は進んでほしいものだ。

 さて、本題。くだらないけれど。

 将棋、朝日将棋、藤井6冠が勝ったとのニュース。およそ、将棋は強いものが勝つ、って、将棋を知らない方はそれを不思議と思わないでしょうが、実は不思議。どこが他人と違うのだろうかって、将棋進行のある時点を取れば、およそ棋士であれば能力の発揮度に何も違わないはず。
 ところが、強いやつは実際勝つのだよね。

 思うに、強いやつは、思考ではなくて、思考の末に発見したいくつもの棋譜の将来が身についてるんだと思うよ。「この場面ではこれこれの進行があるのだけれど、過去の知識上はこの方向をいくのが勝ちに行く道だ」。
 この確信がしっかり生きているのが時の名人じゃないかい?
 ちなみに「しっかり」という副詞はこういう風に使うのだよ。日本語の副詞だからね、動詞を修飾し、その動詞の確定後に、その状態のゆるぎなさを示すのが「しっかり」。確定が見込まれないただの努力目標に「しっかり」と使う安倍用法など日本語ではありません。たとえば、選挙後、しっかりと憲法改定に努力してまいります」みたいなもんだ。これは未然の確定(! そんなもんあんのか)に使用する、よくて中国語だね、知らんけど。

 元に戻って、若いうちは押しなべて強いのは、いく通りもの道筋を知識として確保できているから。将棋が趣味だったわたしでも中盤終わり頃なら、「あ、これ指されたからもう終わり」なんて局面をいくつも知ってるし。
 じゃあ年寄りはもっと数多くの道筋を確保しているんじゃないか、と、そこが違う。かれらは知識の収拾のつかない豊饒の中で、そんなもんを捨て去っているのだ。
 わこうどは自分の道筋をそれた場合には、その先のやはり自分の知っている途につながる幾通りもの分かれ道に相手を追いやろうと指し手をつなぐ。あ、3m右にいきすぎちゃった、なら、10m先に左へジャンプする地点があるから、その場面にもっていこう」。
 ところが経験だけが取り柄の生意気なベテランは、自分が考えれば相手を上まわれるはずだ、という根拠のない確信の道に走るのだね。
 将棋なんかそんなもん。思考ではなく整理の中の泳法で勝負した者が次元違いで勝つ。
 もっとも実際、年寄ると「頭の中の将棋盤が暗くなって見えない」そうだけどね。

 今日は何言ったのかって、科学理論家もこれに似ている。自分で自分の道筋を認識している者のみが、他者を批判できる。それ以外の他者批判はいわゆる「内在的批判」というやつで、それは頭の悪い人がする作業だ、と、過去、当ブログでわたしが批判しつくしたもの。
 これも余談だけど、昔はgoogle検索でシンプルに「内在的批判」とすればわたしのブログが出てきたもんだけど、Gooブログから引っ越して出て来やしない。googleが私のGooのときの記事は6割しか検索ロボットが認識しないといってるんで、それも理由かしら。
 わたしの何かの記事をお探しの方は、私のトップページの一番下に「記事を検索」欄があるので、そちらに単語を入力してください、、、PC用はあるけどスマホ用でもあるかな、、、

 元に戻って、本読みを40年もすると、どんな厚かろうが難解な語句が使ってあろうが、学者の本など10分もすれば過去の分類カテゴリーのどこかに入ってしまう。誰だって「自分の」方向を持っているからね、たとえそれが師匠のお仕着せのものであろうと。学者連中はそれでいいが、そんな古臭い分類カテゴリーの本が社会なり個人なりに役立ったことなどありはしない。役立ってるのならもう題材結果が世間の常識になってるはずでしょ? 論文なんか山のような数ですよ。
 しかしてそんなものを読む必要はない。これが「整理」。そうした間違った道を見ると、逆に自分の正しい道に確信が持てるのも、整理のなせる業。あと、年期ね。
 ただし、時に、その時点で独自性を醸し出している書物はある。それが頭のいい人の作品。自分で何をしているか知っている人間の論。

 ま、なんだかんだいっても、わたくしは将棋の趣味をやめたよ。知らんガキの勝敗を見たってつまんねえもん。