リベルテールの社会学

隈栄二郎のブログ ―生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会と具体的行為主体

 こんにちは。お元気ですか? なにはなくとも健康が一番。
 うちのほうはもう紫陽花が咲きだしました。大昔は、自分で、6月11日から14日が東慶寺から円覚寺へ紫陽花を見に行く時期と決めていたんですが、いま寺のネット宣伝見たら平年で「6月初旬から」とか書いてある。温暖化ですねえ。
 
 ニュース。
京急油壺マリンパーク」閉館へ 53年の歴史に幕」だって。
 知らない? 三浦半島の先っぽの水族館。ローカルかねえ。
 たしかにわたしももう30年以上行ってないからしょうがないのか。なんたって不便だから。
 子どもと行った遊び場がどんどんつぶれて。あとはよみうりランド(と浅草花やしき)くらいだよ。ちょっとさみしい。
 の一方で、関東地方は、近場のただの広い自然公園て相当増えてて。ハイキングコースは消えてるんだけどね。「ただの」というのは、ガイドブック向きの話題性がなくて、ぜんぜん本が作れない、という意味で。さて、いいことか悪いことか。
 わたしゃ保守的なので、子どもは空き地で遊んで大人はハイキング、というパターンが忘れられないけどね。
 
 さて、本日もオタク系テーマもので失礼。心辺が落ち着いてきたんでしょう。
 
 今日のとっかかりは、畠山弘文「官僚制支配の日常構造」、1989.支配権力を扱う第一線職員(公務員)について、事例的に色々集めて、官僚制支配の現実的様態を1冊の本に仕上げた、ということでしょうか。 
 一生懸命やられたことは分かるのですが、さてしかし。
 下位体系論で扱う人間の社会的交渉は、「その交渉の結果いきわたる情報という存在のこと」であり、その交渉の結果で個別に結果する情報の意義のことではありません。
 つまり、権力過程には、ある一人の第一線職員の交渉結果がどうであろうと、その一人の結果を他の99人の結果と同等のものとする社会過程がある。下位体系論ではその権力過程を視野に入れて、その結果、「第一線職員が携わる業務が『普遍的』意義を持って存在する」と述べなければなりません。第一線職員の具体的行為如何は問題にならないのです。そうでなければそれが必須の存在意義である社会科学の因果連関などつかめやしないのです。当然でしょ? わからない? 因果連関をつかむべくやってみてください、その当然さはすぐにわかります。 
 もちろん、遊び仲間の遊び過程はそうではありません。昨日は親友と思った人間も、ちょっとした言葉のいさかいで、「友人同士」の関係は帳消しにされる。明日はどうなるか、人間の関係など浮草のようなものです。
 しかし。それは社会学であっても社会科学ではありません。
 もちろん私は社会学だとも思っていない。そんな現象に、人間が未来で使うべき因果法則などないからです。それは関係のただの説明であり、学問にしたいのなら心理学でやればよい。
 が、これは個人的な価値観なので、社会学と呼ぶのも結構、しかし、断じて社会科学の対象ではありません。
 
 ここで(本日)いいたいのは、社会学の中での個人行為の意義です。
 もひとつ、佐藤勉「役割理論」『基礎社会学Ⅱ』所収,1981。というのがありまして、佐藤氏は従来の役割理論が不満で、行為主体が自己の役割を把握しつつ主体的に行為する姿を理論化すべきではないか、とおっしゃる、ように読めました。
 が、理論の中に行為主体をおくのはいいですが、その行為主体が「自己の役割」なるものを認識してしまった瞬間、その理論は終わりなのです。そんな人間は「組織内役割の遂行のため」に「組織内思考」をする瞬間しか現実存在はしないのですから。それでは理論は行為主体が生きるトータルな現実を映さず、かつ、そんな人間の部分を切り取って構成した「理論」に主体性など残るはずもありません。 
  
 もっとも両氏とも、これらの本以降、もう関心が移ったようで、それらしい論題はweb上に載ってませんのでわざわざ他人が取り上げるまでもないのかもしれませんが、取り上げるのは私の都合で。人の悪口を言ってほっておいていいのか、という事情。
 
 実は世の中というものはシンプルなものなのです。
 佐藤氏の場合などは、そのシンプルさを「概念」なり「ターム」なりと呼ばれる、実は「無責任な第三者の現象に対する一括伝達用の語」によって表現しようとするから、袋小路にはまるのです。 
 支配にかかわる現象であれば、その支配が現実に現象するときに取っている形態を見据え、この形態の要素を変えていく。それが主体性を持つ行為主体がとれ、かつ、とる、行為なのです。ここに個人とシステムの接点がある。このときの行為主体の選択を事前に定式化しておくこと、これが具体的次元の社会科学であり、それが下位体系の縦断的側面の叙述なのです。具体的行為主体は社会学が提示したその法則的立言を使い、「他者の行動を」変容させていく。いくつものそれらの水路の結果が、社会システムの変更を結果する、そのための縦断的定式の作成なのです。
  
 ただ、その場合には、定量的な規定性は現れません。ある要素が、その社会過程の中で、その既存の関係をどう変更する可能性を持つか、という立言のみです。
 つまりそれは、具体的に何人の封建頑迷老齢者を非難すれば、その封建論を10年でクリアアウトできるか、といった計算に乗る立言ではない、という意味です。
 そう聞くと自然科学に劣等性を感ずる社会科学者が不満を覚えるかもしれないな、と思って長々しく書いておきます。
 およそ科学と認知される因果法則とは、量などは含まないものなのです。
 「いや、それらはみんな数式を使っているではないか」と?
 残念でした。数式は量を表すものではありません、その性質を表すものなのです。その自称の性質の、他の諸事象の中での相対的位置を表現するものなのです。

 あるいは今日借りてきたマンガの代わりの柳澤桂子「二重らせんの私」によると、ある理論が実験データに合わないのが対象細胞の指数関数的増加にあることがわかる場合がある。この場合「理論はそもそも正しい」のです。量はその性質として意義があるのです。量が10のはずが100になろうと、それは主体なり客体的条件なりの性質であって、自然科学的法則の領域ではないのです。
 当然です。
 われわれ行為主体はさまざまな環境の中で明日を探し続けるのです。この時、同じ法則が極東の小島と砂漠の緯度経度的区域割で「量的に」合致するわけがあるでしょうか。いいえ、ありません。
 にもかかわらず、同じ法則は極東の行為者とアフリカ砂漠の行為者とで、同等の意義を持つのです。なぜ? その性質を同じく表現しているからです。

 も一つ、では鉄鉱石から鉄を作ってみましょう。
 この自然科学的因果連関は、鉄鉱石+一酸化炭素=鉄+二酸化炭素です。
 この連関に付随する公式は、
   コークス+二酸化炭素一酸化炭素
   砂+石灰石=スラグ+二酸化炭素
 です。これは量の問題ではありません。等式の策定に相対的な量(一酸化炭素3単位に二酸化炭素3単位の対応等)を使いますが、それが量を表していないことはその単位を見ればわかると思います。グラムでもなく立方センチでもありません(以上、平山令明「暗記しないで化学入門無機化学編」)。
 もちろん1年で10万トンの鉄を作るには、溶鉱炉がいくつもいるし、鉄鉱石だって、その成分に従って幅のある量が必要です。しかし、それらのことは自然科学を基礎にはしているけれども、因果連関法則はその量自体にはかかわらない。1年で10万トンの鉄を作るために溶鉱炉がいくついるか、鉄鉱石が何トンいるか、それらは場合場合で違いすぎるので、誰も法則にはしない。
 自然科学においても、法則とはそういう位置にあるのです。

 って、昨日、実家から持ってきた高3の通信簿見たら、物理も化学も「4」だったよ。てっきり「3」だと思ってた。試験勉強前夜一晩だけで何点取れるか、の楽しみがストレス解消法だったんだけどね。たしかにたいてい喜んで帰宅できました。